「鎌倉殿の13人」源頼朝のいとこでありライバル・木曽義仲は埼玉県嵐山町出身。生誕地などゆかりの地4選

こんにちは! モリスギ!編集部のナナです。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』登場の埼玉ゆかりの武将を紹介するシリーズ。ラストは悲劇の武将・木曽義仲をご紹介します。

信濃国出身の木曽義仲が、埼玉とどういう関係があるの?

そんなふうに思われた方も多いのでは? 歴史にあまり詳しくない私もそうでした。実は、出自に関係してくるのですね。

編集部ナナ
編集部ナナ
まさか埼玉出身だったとは意外ですね!

悲劇の武将・木曽義仲はどんな人物だったのでしょうか? 埼玉県にあるゆかりの地も含めてご紹介していきます!

「鎌倉殿の13人」木曽義仲とは?

源 義仲 (みなもとのよしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
※文章引用:Wikipedia「源義仲」

木曽義仲は東国源氏の武将の一人で、旗頭として平家討伐の際に大きく貢献し、歴史的評価を受けている人物です。正しい名称は、源義仲。

幼名は駒王丸(こまおうまる)。父・源義賢(よしたか)の兄である義朝の長男・悪源太義平(あくげんたよしひら)の武蔵国勢力拡大の策により、義賢の住まいである大蔵館(埼玉県嵐山町)が攻め入られ、義賢とその一族の多くが討ち死にしました(大蔵の戦い)。

その時駒王丸は2歳。悪源太義平にその命を狙われるも、畠山重忠の父・重能と斎藤別当実盛のはからいで、母・小枝御前(さえごぜん)とともに助けられることになります。

その後、鎌倉の目に触れないよう信濃国の中原兼遠(かねとお)の元に養育に出され、13歳の時“木曽次郎義仲”の名をもらいます。
中原兼遠に武術を習った義仲はめきめき頭角を表し、平家討伐に向けて兵を集め戦に奔走します。

横田河原の戦いで大勝をあげた後、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い、篠原の戦いで平家軍勢に連勝、京都から平家を追放するのに成功しました。

その功績を受け朝廷から朝日将軍の称号をたまわり、征夷大将軍にも命ぜられるなど、武将としての地位を確実なものにしました。

そんな中義仲の勢力を怖れたのが、いとこである源頼朝。源氏棟梁の座を奪われまいと頼朝の異母弟である源範頼・義経に義仲討伐を命じ、義仲は鎌倉軍に討たれ敗退してしまいます(宇治川の戦い)。

戦に敗れた義仲は、今井兼平ら残り少ない兵を率いて北陸に逃げるも、粟津ヶ原の戦い(現・滋賀県)で無念の死を遂げました。

この木曽義仲の最期は「平家物語」でもドラマチックに描かれ、パートナーの巴御前とともにファンの多い武将のひとりです。

パートナーの巴御前は、女性でありながら強く気高い女武者。「平家物語」での有名なフレーズといえば、“首ねぢ切って捨ててんげり”。木曽義仲の最期、別れの際義仲に忠誠を誓う証にと、敵将の首をねじきり最愛の義仲にささげて逃げたという逸話が残されています。

編集部ナナ
編集部ナナ
強烈だけど、巴御前の強さと愛情の深さが伝わってくるフレーズ!

『鎌倉殿の13人』では、義仲の嫡男・源義高も登場。人質になった義高は、源氏再興という義仲の一縷の望みを幼いながらも自らの責務を全うしようとしたのかもしれません。しかし義仲が討たれたあと、わずか12歳で入間川で討ち死という運命をたどることに。

義仲を筆頭に、父・義賢、嫡男・義高と、三代に渡り悲劇の死を遂げているのです。義仲と別れた後パートナーの巴御前はどのような想いで晩年を過ごしたのか、人物像の背景を知るとそのあたりも気になってしまいますね。

では次に、気高き武将木曽義仲ファミリーの、埼玉ゆかりの地を4ヶ所ご紹介していきましょう!

鎌形八幡神社(埼玉県嵐山町)。木曽義仲の産湯として有名な場所

鎌形八幡神社は、奈良時代末から平安時代はじめころに、坂上田村麻呂によって建立されたと言われています。その後、源氏の氏神として地域の人々に大切に守られてきました。

そこに、「伝木曽義仲産湯の清水」があり、今も清水が湧き出ています。

鎌形八幡神社は、2021年大河ドラマ『青天を衝け』の2話で、青年の渋沢栄一らが血洗村の五穀豊穣を願って獅子舞を奉納する際に使用されたロケ地でもあります。

【さいたま市・嵐山町】吉沢亮が獅子舞を踊った神社はどこ?ドラマ『青天を衝け』編〜Googleマップで見られるドラマの埼玉ロケ地特集

<アクセス情報>
・施設名:鎌形八幡神社
・住所:埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993

大蔵館跡(埼玉県嵐山町)。木曽義仲の父・源義賢、最期を遂げた地

木曽義仲の父は、帯刀先生と名高い源義賢(よしたか)。上野国(群馬県)多胡から移り住み、大蔵に館を構えました。

しかし、異母兄弟である頼朝の父・義朝の長男、悪源太義平(あくげんたよしひら)が、武蔵国勢力拡大を目的に大蔵館を襲撃、義賢とその一族を滅ぼします。

義仲は信州に逃れることになり、その後父の故郷に戻ることはありません。しかし、心のどこかで一度は生まれ故郷に帰りたいと秘めていたことでしょう。

また、頼朝と和解を目的に人質に送った義仲の嫡男・義高も、義仲亡き後に鎌倉から大蔵へ身を潜めようと逃げますが討ち死にし、父や祖父の故郷に帰ることはできませんでした。

<アクセス情報>
・施設名:大蔵館跡
・住所:埼玉県比企郡嵐山町大蔵522

清水八幡宮。木曽義仲の嫡男・源義高、最期を遂げた地

木曽義仲が、頼朝と和睦を目的に鎌倉へ人質として送り込んだのが、嫡男である源義高。

頼朝と北条政子の子・大姫と政略結婚したものの、頼朝が義仲を討伐。義高は我が身の危険を怖れて鎌倉を脱出し父の故郷嵐山町に逃れます。

その途中、頼朝の兵に追われて入間川で命を落とします。その時12歳という悲劇の最期を遂げました。

清水八幡宮は、大姫の婿である源義高の死をしのんだ北条政子が建立したと伝えられています。

<アクセス情報>
・施設名:清水八幡宮
・住所:埼玉県狭山市入間川3丁目35ー10

源氏三代供養塔(埼玉県嵐山町)。義賢・義仲・義高三代の名がそろった供養塔

武蔵国ゆかりの源氏三代、義賢、義仲、義高。激しい源平戦から鎌倉幕府創立までの熾烈な権力争いの中で人生を遂げました。

いずれも、最期は身内に討たれるという“悲劇の死”。戦国初期を生きた埼玉県嵐山町ゆかりの武将として、地域の方に今もなお愛されています。

<アクセス情報>
・施設名:源氏三代供養塔(大行院神明殿内)
・住所:埼玉県比企郡嵐山町大蔵71

まとめ

パートナーの巴御前とともにファンの多い戦国武将・木曽義仲。埼玉県嵐山町の生まれで、その際の産湯が今もなお湧き出ているのですから、驚きです。

前記事で紹介した深谷市出身の人気武将・畠山重忠公は、畠山重能の息子。義仲が命の恩人と戦わなければならない運命などその心情に想いを馳せると、大河ドラマやゆかりの地をより深く楽しむきっかけになりますね。

公家から武将が権力を握るようになる鎌倉時代、知れば知るほど内部のドロドロさ加減がおもしろいです。

三谷幸喜さんの描く木曽義仲や巴御前、楽しみですね!

※2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
公式サイト:https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
公式Twitter:https://twitter.com/nhk_kamakura13

※参考サイト
「嵐山町旅の達人ー木曽義仲」一般社団法人嵐山町観光協会公式ホームページ

※『鎌倉殿の13人』13人の有力御家人の一人、比企能員(ひきよしかず)。比企氏についてはこちらの記事をご覧ください!

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の一人、比企能員(ひきよしかず)。埼玉偉人ゆかりの地3選

※木曽義仲の命の恩人、畠山重能の息子・畠山重忠公は深谷市出身。「鎌倉殿の13人」では中川大志さんが演じます。埼玉県で愛されている武将もぜひチェックしてください!

「鎌倉殿の13人」名将・畠山重忠。埼玉県民に愛される重忠公ゆかりの地3選(畠山重忠公史跡公園、満福寺、菅谷館跡)



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